被災地報告 大船渡市 新沼興隆
東日本大震災被災地から
大船渡市
㈱大昭堂印刷所 新沼興隆
3月11日は、いつものようになんら日常と変わらずのたたずまいであった。
それでも悪夢は始まる。午後2時46分マグニチュード9・震度6強の大地震が発生、会社の事務所にいた私はすぐ社員に外の駐車場に避難を指示したが、強くて長い揺れが続き、なかなか動けない状態である。パソコンを押さえる者、棚から物が落ちるため体を張って必死で支える者、一旦揺れが収まったので落下したものの整理を始めたところ、また次の揺れである。今度はすぐさまみんな外に避難したが電線は波を打ち、向かいの倉の屋根からは積み石が道路に落下してきて大変危険な状態である。
その後余震が何回かあったが、午後3時過ぎ落下物の片付けは後回しにして社員には決して海方面には行かないことと、くれぐれも気をつけて自宅に帰るように指示と念を押した。
一人暮らしの近所の伯母も直ぐ我が家に避難して来ていたが、なかなか余震が収まらず母と一緒に怯えていた。
そうこうしている内に、防災無線では大津波警報が流れ巨大な津波が押し寄せようとしていたが、まさか海から3kmも離れている我が盛町まで波が押し寄せることなど頭にはさらさら無いのである。50年前のチリ地震津波でも我が家までは遠く来なかったからである。
ところが、海のある大船渡町から車で逃げてきた後輩が我が家に立ち寄り「今そこまで津波が来ている、すぐ逃げて!」と血相を変えて言うのでこれはただ事ではないと思い、私は直ちに車に母たちを乗せ、息子と妻は別の車でそれぞれ北側の山方向に向かって避難したのである。
もちろん信号は消え、みんな先を急ぐ大変なパニック状態であり、自分自身も平常心を欠いていることに気がついてはいても、まるで宙に浮いているかのようにどうしようもなく変な感じなのである。
その間、逆に海方面に向かっていく車と次々にすれ違ったのであるが、「そっちは危ない!」と伝えたくても何も伝達する術が無いのである。
一夜を高台にある伯母の家でロウソクの灯りとラジオを頼りに過ごし、次の日の朝自宅に戻ったのである。
我が家は、会社と隣接しており地震被害は茶ダンスの中のグラス類が落ちたぐらいで、会社については、物が落ちたり一部の壁が壊れたりしたものの軽微な被害であった。
また津波も、我が家から直線距離にしてわずか50mにまで達したが、これまた被害の無かったことは不幸中の幸いであった。
しかし50年前のチリ地震津波では一人の死者も無かった盛町で今回は18名の尊い命が奪われた。まさに想定外としか言い表すことの出来ない未曾有の大災害である。
震災から約3ヶ月がたった今でも、未だ都市計画が定められずにいてこの先どうなるのか不安が募るばかりである。
幸い我が社においては、すでに仕事が再開できているので先人が様々な困難をそのたびに乗り超えてきた実績と意志を受け継ぎ、とにかく一歩ずつ前に歩んで行こうと思っている。
おわりに、岩手県印刷工業組合様をはじめ全国からご支援いただいた方々に感謝を申し上げる次第である。
平成23年6月10日
2011.06.13 更新



